【考察・原作との相違】映画「ひらいて」【綿矢りさ原作】
(ネタバレを含みます)
2021/12/30
監督・脚本・編集 首藤凛
出演 山田杏奈,芋生悠,作間龍斗
原作 綿矢りさ
3回目の鑑賞……今年を締めくくりに観たかったのはやはり本作。
本作は10月22日に公開され,二ヶ月を超えたにも関わらず(劇場は変わりながらも)まだ上映中というのは,大々的に宣伝されたわけではない映画としては,素晴らしいことなのではと思う。
私のようなリピーターが多かったのか,口コミで新規のお客さんがきたのかはわからないけど,好きな作品なのでうれしいことです。
さて,綿矢りささんによる原作は読まずに鑑賞した私だが,2回目を見た後,原作本を購入した。
読んでみて,映画は概ね原作をなぞりつつ,実にうまいアレンジをしていることがわかった(もちろん,原作も良かった)。
記憶にある限りで,映画と原作の相違を書き出してみた。
(アレンジに感銘を受けてのことであり,優劣を比較しようという趣旨ではない。また,これから映画を観る方,原作を読もうという方にはネタバレになるのでご注意ください。)
*引用の原作のページ数は新潮文庫版のものです。

ひらいて(新潮文庫) - 綿矢 りさ

【冒頭】
映画はまず「美雪」が登場し,モノローグから始まる。原作を読まずに映画を観た私は,それが誰かはわからかったが,原作を読んだ人でも,おやっと思ったことだろう。原作は主人公「愛」の「たとえ」への想いを語ることから始まるが,その違いだけでなく,映画の美雪のモノローグ(あとで手紙とわかる)「3月生まれは変わった人が多いと言っていましたね」で始まる部分は原作にはないのである(なかった……はず)。
しかし,この手紙は映画のクライマックスであらためて登場して愛と美雪の関係で重要なアイテムとなる。
映画はここから,挿入歌「夕立ダダダダダッ」が始まり,愛が所属するダンスグループの練習シーンとなる。これも映画オリジナルだが,認知欲求の強い愛ならありそうな話で,ドローン空撮の素晴らしいカットと山田杏奈さんの魅力的な表情で導入から映画に引き込まれることとなった。
でも,原作を好きで観にきた方はオリジナル要素満載に一抹の不安を感じたかも知れない。しかし,心配ご無用!
【ファーストキス】
冒頭のダンスに美雪も参加しているのも映画オリジナル(原作では美雪は球技大会のセレモニーのリーダー役である)。ここから美雪が低血糖で倒れ,愛が口移しでジュースを飲ませる流れは映画も原作も同様であるが,原作で出てくるのは69ページと3分の1ほど進んだ後になる。映画は序盤にこのシーンを持ってくることで,愛と美雪の関係が強調されている。
なお,映画初見の際は,いまどき紙コップのジュース?と思ったが,この理由は原作で説明されており(71ページ)合点がいった。
【ゴミ箱】
愛が「たとえ」に気づいてもらうために,原作では階段の掃除をしながら足音を立てるだけである(16ページ)が,映画ではゴミ箱を階段の上から放り投げる(!)。映画は愛の性格を一瞬で表す表現として効果的な変更。
【折り鶴】
映画で,キービジュアルの一つになっている折り鶴を桜の花に見立てたオブジェを,文化祭のクラスの出し物としており,愛も文化祭の実行委員として,鶴を折っている。原作では,文化祭の出し物は「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘップバーンのモザイク画(93ページ)であるが,愛自身は,目的は定かではないが,春から鶴を折り続けていると描写されている(54ページ)。
オードリー・ヘップバーンの絵を使うとなると権利関係の問題が出てくることもあるだろうが,折り鶴を桜の花に見立てたオブジェに変更したのは,前記原作の描写と,折り鶴が原作のラストの「ひらいて」にも繋がる重要なモチーフとなるためメインに持ってきたと思われる。ビジュアルとストーリー双方を補完する脚色。
【愛の爪】
映画では,愛が当初丁寧に爪の手入れをしているが,だんだんマニキュアも塗らず欠けてもほったらかしになって心も生活も荒んでいくのが描写される。部屋がどんどん散らかっていったり,スマホの目覚まし音の不穏さ(エヴァの警報音?)がそれに輪をかける。原作では爪を削る描写があるだけだが,原作は愛の語り(一人称)で書かれているので,心情の変化は主観として示される。画と文章,表現方法の違いということであろう。
【三者面談】
映画では三者面談の段階で,愛はたとえの父親と出会う。原作では75ページで三者面談が出てくるが,たとえの父親はそこには出てこない。原作を読んでいるときは,あれ,たとえの父親は匂わせだけで原作では出てこないのかしら,と思ってしまった。
しかし,映画での父親役の萩原聖人さん,この段階で既に不穏な空気を醸し出している。お見事。
【たとえの家に向かう愛と美雪】
映画では,バスに乗る際愛が「私も行っていい?」と訊くが美雪は答えず,バスの仲で美雪が「愛ちゃん,何しに来るの」と問い,愛は答えない(答えられない)。原作では愛が私も行っていい?と問い,美雪が「分かった,じゃあついてきて。」と答えている(162ページ)。この違いが出たのは当然で,原作ではこの前に美雪が愛に手紙を送って一度壊れた二人の関係が和解的になっているからこその流れで,映画は関係が壊れたままだからである(なお,映画では愛はこの手紙をラスト近くで読むことになる。)。
【たとえの父親の授業参観回想】
原作では愛と美雪がたとえの家で父親に会う場面の直前に,父親の毒親っぷりを表す回想として出てくる(162ページ)。映画にはなく,代わりに前記の三者面談が伏線として置かれる。ここに入れると映画的には緊迫感を切ってしまうので,削ったのは正解と思う。これも表現方法の違いであろう。
【卒業式の日の愛とたとえ,愛と美雪】
映画ではラストシーンとなるが,原作にある愛とたとえの会話で出てこないものがある。
原作では愛を拒絶してきたたとえの和解とも許しとも共感とも取れる結構重要な会話だが(177ページ~179ページ),映画では桜の木のオブジェを愛が蹴り倒すカットに続いて,原作の前記発言の直前(春琴抄まで)の会話(175~177ページ)をもって,映画でのたとえの出番は終わる。愛がオブジェを蹴り倒すことで何か一つ突き抜けたことが描かれ,それを見ていたたとえが,それについては触れずに会話をすることで,たとえと愛の関係は十分描いたと監督は判断されたのだと思う。私もそう感じた。
さて,その原作におけるたとえと愛の最後の会話を削ったことで,ラスト,愛が美雪の教室へ駆けつけるトリガーとなるのは,映画冒頭で美雪が愛の机に入れていた「三月生まれは~」の手紙である。「三月生まれは~」は映画オリジナルだが,手紙の後半は原作では,たとえの自宅へ向かう前に愛に送られていることは前述のとおり,ここに入れることで映画の上ではより効果的なものとなっている。
愛が美雪に言葉(首藤監督が映研時代に撮った映画のタイトルと同じ部分)をかけるまでは原作と同様だが,映画はそこでスパッと終わる。原作のような,美雪の反応は描かれていないので,美雪がどう思ったかははっきりわからないが,監督は原作と同じ心情をイメージしていたと思われる。
ここで,映画冒頭も美雪と愛で始まったことを考えると,首藤監督はこの映画を美雪と愛の物語と捉えていたのでは,と感じる。私はたとえの出番をあえて早めに終え,ラストシーンは美雪と愛の二人で締めたこの映画の形で満足している。(なお,監督は,パンフレットの綿矢りささんとの対談で,(原作ではこの後に続く)電車のくだりも最初は入れていた,「ただ,たとえと愛の関係の変化の上で,それを超えてくる美雪と愛の関係というところで終わらせたほうがいいのかなぁと思って」と述べている。)
【愛の電車行】
原作179ページ~183ページで描かれる原作のラストシーンは,映画には出てこない(折り鶴を開く行為はラストシーン冒頭に移動している)。
「ひらいて」という台詞は,原作のこの部分に出てくるので,映画では「ひらいて」の意味が明確にされないとも言える。といって,原作でも「ひらいて」の意味は色々解釈できるところであり,映画を前項の位置で終えたのは正しかったと思う。(綿矢氏も前記パンフレットの首藤監督との対談で,説明しすぎずに終わる感じがとても潔いなと思った旨述べている。)
以上,色々考えてはみたが,映画は理屈ではなく,観た人の心に響くかどうかであって,私にとって本作は間違いなく魂に鉞をぶち込まれたくらい響いた作品である。
小説やマンガ原作のある作品を映画化(映像化)することには,イメージが違うと即失敗作呼ばわりされるリスクが付きまとうが,成功作はいずれも原作を正しく理解した上で,文章(マンガ)と映像の違いを理解し適切なアレンジをしていると感じる。本作では,私は原作を読んで,登場人物の内心を補完することができてよかったが,それはまさに,映画と原作の間にズレがなかったということだと思う。たとえ,ここで取りあげたような相違があっても,である。
脚本・編集も兼ねた首藤凛監督は,17才のときに原作を読んで以来いつかこの作品を映画にできたらいいなとずっと思っていたとのこと(パンフレットより)で,その想いに相応しい適切な映像化を実現されたと思う。
もちろん,俳優陣やスタッフの理解と愛情もあったはず。
心に残る作品を,ありがとうございました。
2021/12/30
監督・脚本・編集 首藤凛
出演 山田杏奈,芋生悠,作間龍斗
原作 綿矢りさ
3回目の鑑賞……今年を締めくくりに観たかったのはやはり本作。
本作は10月22日に公開され,二ヶ月を超えたにも関わらず(劇場は変わりながらも)まだ上映中というのは,大々的に宣伝されたわけではない映画としては,素晴らしいことなのではと思う。
私のようなリピーターが多かったのか,口コミで新規のお客さんがきたのかはわからないけど,好きな作品なのでうれしいことです。
さて,綿矢りささんによる原作は読まずに鑑賞した私だが,2回目を見た後,原作本を購入した。
読んでみて,映画は概ね原作をなぞりつつ,実にうまいアレンジをしていることがわかった(もちろん,原作も良かった)。
記憶にある限りで,映画と原作の相違を書き出してみた。
(アレンジに感銘を受けてのことであり,優劣を比較しようという趣旨ではない。また,これから映画を観る方,原作を読もうという方にはネタバレになるのでご注意ください。)
*引用の原作のページ数は新潮文庫版のものです。

ひらいて(新潮文庫) - 綿矢 りさ
【冒頭】
映画はまず「美雪」が登場し,モノローグから始まる。原作を読まずに映画を観た私は,それが誰かはわからかったが,原作を読んだ人でも,おやっと思ったことだろう。原作は主人公「愛」の「たとえ」への想いを語ることから始まるが,その違いだけでなく,映画の美雪のモノローグ(あとで手紙とわかる)「3月生まれは変わった人が多いと言っていましたね」で始まる部分は原作にはないのである(なかった……はず)。
しかし,この手紙は映画のクライマックスであらためて登場して愛と美雪の関係で重要なアイテムとなる。
映画はここから,挿入歌「夕立ダダダダダッ」が始まり,愛が所属するダンスグループの練習シーンとなる。これも映画オリジナルだが,認知欲求の強い愛ならありそうな話で,ドローン空撮の素晴らしいカットと山田杏奈さんの魅力的な表情で導入から映画に引き込まれることとなった。
でも,原作を好きで観にきた方はオリジナル要素満載に一抹の不安を感じたかも知れない。しかし,心配ご無用!
【ファーストキス】
冒頭のダンスに美雪も参加しているのも映画オリジナル(原作では美雪は球技大会のセレモニーのリーダー役である)。ここから美雪が低血糖で倒れ,愛が口移しでジュースを飲ませる流れは映画も原作も同様であるが,原作で出てくるのは69ページと3分の1ほど進んだ後になる。映画は序盤にこのシーンを持ってくることで,愛と美雪の関係が強調されている。
なお,映画初見の際は,いまどき紙コップのジュース?と思ったが,この理由は原作で説明されており(71ページ)合点がいった。
【ゴミ箱】
愛が「たとえ」に気づいてもらうために,原作では階段の掃除をしながら足音を立てるだけである(16ページ)が,映画ではゴミ箱を階段の上から放り投げる(!)。映画は愛の性格を一瞬で表す表現として効果的な変更。
【折り鶴】
映画で,キービジュアルの一つになっている折り鶴を桜の花に見立てたオブジェを,文化祭のクラスの出し物としており,愛も文化祭の実行委員として,鶴を折っている。原作では,文化祭の出し物は「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘップバーンのモザイク画(93ページ)であるが,愛自身は,目的は定かではないが,春から鶴を折り続けていると描写されている(54ページ)。
オードリー・ヘップバーンの絵を使うとなると権利関係の問題が出てくることもあるだろうが,折り鶴を桜の花に見立てたオブジェに変更したのは,前記原作の描写と,折り鶴が原作のラストの「ひらいて」にも繋がる重要なモチーフとなるためメインに持ってきたと思われる。ビジュアルとストーリー双方を補完する脚色。
【愛の爪】
映画では,愛が当初丁寧に爪の手入れをしているが,だんだんマニキュアも塗らず欠けてもほったらかしになって心も生活も荒んでいくのが描写される。部屋がどんどん散らかっていったり,スマホの目覚まし音の不穏さ(エヴァの警報音?)がそれに輪をかける。原作では爪を削る描写があるだけだが,原作は愛の語り(一人称)で書かれているので,心情の変化は主観として示される。画と文章,表現方法の違いということであろう。
【三者面談】
映画では三者面談の段階で,愛はたとえの父親と出会う。原作では75ページで三者面談が出てくるが,たとえの父親はそこには出てこない。原作を読んでいるときは,あれ,たとえの父親は匂わせだけで原作では出てこないのかしら,と思ってしまった。
しかし,映画での父親役の萩原聖人さん,この段階で既に不穏な空気を醸し出している。お見事。
【たとえの家に向かう愛と美雪】
映画では,バスに乗る際愛が「私も行っていい?」と訊くが美雪は答えず,バスの仲で美雪が「愛ちゃん,何しに来るの」と問い,愛は答えない(答えられない)。原作では愛が私も行っていい?と問い,美雪が「分かった,じゃあついてきて。」と答えている(162ページ)。この違いが出たのは当然で,原作ではこの前に美雪が愛に手紙を送って一度壊れた二人の関係が和解的になっているからこその流れで,映画は関係が壊れたままだからである(なお,映画では愛はこの手紙をラスト近くで読むことになる。)。
【たとえの父親の授業参観回想】
原作では愛と美雪がたとえの家で父親に会う場面の直前に,父親の毒親っぷりを表す回想として出てくる(162ページ)。映画にはなく,代わりに前記の三者面談が伏線として置かれる。ここに入れると映画的には緊迫感を切ってしまうので,削ったのは正解と思う。これも表現方法の違いであろう。
【卒業式の日の愛とたとえ,愛と美雪】
映画ではラストシーンとなるが,原作にある愛とたとえの会話で出てこないものがある。
原作では愛を拒絶してきたたとえの和解とも許しとも共感とも取れる結構重要な会話だが(177ページ~179ページ),映画では桜の木のオブジェを愛が蹴り倒すカットに続いて,原作の前記発言の直前(春琴抄まで)の会話(175~177ページ)をもって,映画でのたとえの出番は終わる。愛がオブジェを蹴り倒すことで何か一つ突き抜けたことが描かれ,それを見ていたたとえが,それについては触れずに会話をすることで,たとえと愛の関係は十分描いたと監督は判断されたのだと思う。私もそう感じた。
さて,その原作におけるたとえと愛の最後の会話を削ったことで,ラスト,愛が美雪の教室へ駆けつけるトリガーとなるのは,映画冒頭で美雪が愛の机に入れていた「三月生まれは~」の手紙である。「三月生まれは~」は映画オリジナルだが,手紙の後半は原作では,たとえの自宅へ向かう前に愛に送られていることは前述のとおり,ここに入れることで映画の上ではより効果的なものとなっている。
愛が美雪に言葉(首藤監督が映研時代に撮った映画のタイトルと同じ部分)をかけるまでは原作と同様だが,映画はそこでスパッと終わる。原作のような,美雪の反応は描かれていないので,美雪がどう思ったかははっきりわからないが,監督は原作と同じ心情をイメージしていたと思われる。
ここで,映画冒頭も美雪と愛で始まったことを考えると,首藤監督はこの映画を美雪と愛の物語と捉えていたのでは,と感じる。私はたとえの出番をあえて早めに終え,ラストシーンは美雪と愛の二人で締めたこの映画の形で満足している。(なお,監督は,パンフレットの綿矢りささんとの対談で,(原作ではこの後に続く)電車のくだりも最初は入れていた,「ただ,たとえと愛の関係の変化の上で,それを超えてくる美雪と愛の関係というところで終わらせたほうがいいのかなぁと思って」と述べている。)
【愛の電車行】
原作179ページ~183ページで描かれる原作のラストシーンは,映画には出てこない(折り鶴を開く行為はラストシーン冒頭に移動している)。
「ひらいて」という台詞は,原作のこの部分に出てくるので,映画では「ひらいて」の意味が明確にされないとも言える。といって,原作でも「ひらいて」の意味は色々解釈できるところであり,映画を前項の位置で終えたのは正しかったと思う。(綿矢氏も前記パンフレットの首藤監督との対談で,説明しすぎずに終わる感じがとても潔いなと思った旨述べている。)
以上,色々考えてはみたが,映画は理屈ではなく,観た人の心に響くかどうかであって,私にとって本作は間違いなく魂に鉞をぶち込まれたくらい響いた作品である。
小説やマンガ原作のある作品を映画化(映像化)することには,イメージが違うと即失敗作呼ばわりされるリスクが付きまとうが,成功作はいずれも原作を正しく理解した上で,文章(マンガ)と映像の違いを理解し適切なアレンジをしていると感じる。本作では,私は原作を読んで,登場人物の内心を補完することができてよかったが,それはまさに,映画と原作の間にズレがなかったということだと思う。たとえ,ここで取りあげたような相違があっても,である。
脚本・編集も兼ねた首藤凛監督は,17才のときに原作を読んで以来いつかこの作品を映画にできたらいいなとずっと思っていたとのこと(パンフレットより)で,その想いに相応しい適切な映像化を実現されたと思う。
もちろん,俳優陣やスタッフの理解と愛情もあったはず。
心に残る作品を,ありがとうございました。
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